私の庵では、他寺や他院、他社などにお詣りや、御礼詣り、ご奉仕などに行く際等に
『御礼にはいくらぐらいが妥当か』
と尋ねられることがある。
そう言うときには
『家族でちょっと贅沢なディナーで支払う金額程度』
や、
『家族で贅沢しようとお洒落して出掛けたディナー三回分位』
または
『ちょっと贅沢なランチ三回分位』
とアドバイスしている。
これは、その人の実力と能力、経済力によって価値観が違うからである。
ラーメン食べに行くのが精一杯の家庭もあれば、ちょっとした月給程の食事が日常の方も、私の庵では混在し仲良く学んでくださっている。
これは、本当にありがたい学びが出来ておりみんなが幸せなことです。
セスナでも無人島でも買えるカードを持つ人も、明日の支払いどうしよう、と言う人も同じ様に毘沙門天王様の御縁結びに信貴山や登山修行に集う。
ちょっとすれば不思議な光景かもしれませんが、毘沙門天王様にとっては、誰もが同じ様に道を探し歩くものなのです。
一家の年収が200万円というお客様もあれば、年収が億越えみたいなお客様が同じ貨幣価値であるハズがない。
同じ一万円であっても、同じではない。
余裕ない方には【お金がなければ身体で払え】とも言う。
金がありすぎる人にも【思いを形にするのは労働】とも言う。金払って終わりは無い。
だから私の庵につどう皆様は、どこの寺院や神社のお手伝いに入って頂いても、恥ずかしくない働きをしてくださる。
ご本尊様や護法様が御守りくださる法場を清める時には、『己の穢れが清められる』と教えているからです。
今もある寺院のお手伝いに、ゴチゴチになった護摩壇や佛器磨きに通ってくださっている方もいらっしゃる。
だからお金で言う『お気持ちで』は有り得ないと思っています。
ぶっちゃけお気持ちでって言われれば私でさえ困るし、イヤな事を考えてしまう。
法外な値段もビックリだが、『お気持ちで』も❮不親切だな❯と私は思っている。
ある人は無い人を導き、先頭に立っていただき牽引する役割を得ていらっしゃる。
お金が足りず例えば経本を買うか、夕飯の魚を買うか迷わなくても善いように、印施して頂いたり、経の勉強会に会場を提供して頂いたり、出来る人は出来る事を。
出来ない人も経を読めるように学べるよう、それに応えて真面目に修行せよ。と言うことです。
無い人は、ある人に助けて頂き、足りることを知る事が学びだと思っている。
毘沙門天王様って本当にすごい神様だわ。
人には役割ってものがある。
背伸びしたって、真似たって届かないものは届かない。
自分に届く、ちょうど善い信仰と言うものがあるはずです。
素直で正直で、ちょうど善く幸せに生きましょう。
画像は信貴山千手院ホームページより。