私は毘沙門天王様が【お前さんみたいな魔物加減のやつは、他の佛様じゃ佛さんが手を焚くから、おっちゃんが一緒に修行してやるでぇ】と選んで面倒見てくれていると想っている。
美人でもないくせに、追われると逃げたい心理が働くのか、以前は逃げていた事もあったけど、約30年近いお付き合い。
7〜8年くらい前だったか、とある試練を頂いた時に覚悟を決め、完全にお任せする人生を選択しました。
『佛道修行する人に一切支援授与す』
確かにお任せしてからは、毘沙門天王様の威力をバンバン見せられて、次から次へと佛様の大切な宝物が庵に集まってくる。(世福には乏しいんだよね〜(笑))
私ごときに使いこなせるのか不安になるような、スゴいものが増えてゆくのね。
それに従って比例するように《佛道に照らし合わせてどうか?》と考えるような厳しさと言うか、妥協する基準が変わって来たのだと思います。
そして何より思うのはお任せした以上、何もかも毘沙門天王様の掌の上で起きているのだ、と言う事です。
活かすも殺すも全部おまかせコース。
私が大きく道を間違え生きてきたからこそ、修整してくださっている。
その瞬間には『あれま、こりゃやりすぎじゃないですかぁ?』と聞きたくなる事も何度もあった。
でも、数時間〜数日も経つと『あぁなるほど、これを先回りしてこうしてくださったんだ』と謎解きとなる(笑)
山登りしてみるとなぜそうなのかが良くわかるね。
背負って登るには手荷物際限なく、と言う訳には行かない。
初心の私には、絶対に持たなければならない数点の荷物は限られる。
多めの水分、雨具、携帯電話、杖、少量の金、佛様詣りの諸物、こんなもんかな?
余裕があれば着替、筆記用具、梅干、御供、、、と増えて行く。
山登りの卓越な方は茶道具一式や、一尺もある厨子の佛様を背負って登れる方もいるそうですが、私みたいなのは限られた物しか持てないねぇ。
自分の身体だけでも精一杯。
しかも登ったら降りなければならない。
その行程の中で、いるものといらないものがハッキリしてくる。
それと同じ事ですね。
私には私のような初心のモノには、持てるだけのモノしか持てない。
分相応な人生を歩めるように、佛様のご配慮で起こるべくして起き、有るべくして有り、去るぺきして去る。そして来るべきものが来て、残るものだけが残る。
諸行無常ですもの。
全部お任せした人生なんですもの。
私がどうこう考えたって及び付かないお考えがあって、先回りして導いて下さると言う事なのですもん。
選ぶのは私ではない。選んでくださった道を歩かせて頂ける事に感謝しています。
やっぱ毘沙門天王様はスゴイねぇ。
んー更にメッチャほれてまうやろー。