私はよく例え話で、
『トマトが食べたくて買いにいく、けれども赤く熟れた美味しそうなトマトがない。
どう見ても美味しいとは思えない青いトマトしかない。
けれどもトマトが食べたいからこれをレジに持って行こうとしている。
もし、もっと美味しそうなトマトがレジ前に積んであったら?
先に持っている青いトマトを元に戻したって良い。
両方お会計したっていい。』
と、お話をします。
私は確かに思うことは、色々見たり聞いたりした上で、自分で考えて選んで良い。と思うのです。
最初から何でも知っている人などいない。
だから最初は、見物がてらの物見遊山から始まっても良い。
私も約29年前に、初めて信貴山に行った時に、そこにいた若い僧侶の方にお堂の中の佛様のこと。
『ぜひ拝見させて頂きたい』
と言って
『だからあんたはダメなんだ』
と、怒られた。
ハッキリ言えば、その時は何故、怒られたのかわからなかった。
今はやっと、その真意?(笑)わかるような気がしてます。
その正解は、、、
『参拝させて頂きたい』
だったのだろう。チガッタラワラッテクレ
同じような文字を使うが、意味は違う。
佛様は見るものでなく、拝むものだからだ。
ちなみに、この時のお坊様には、今現在も細く長くご供養の先生として御指導頂いてます。
でもね、今の日本は節操なく。
生まれてはお宮に参り、結婚はチャペルで、死んだら坊主。
が一般的。
既存の神社仏閣が、イベント事の大金が動く結婚や葬式でしか法を示す機会を作ろうとしてこなかった。
これはもう、助けてもらいたい側からは、藁をもつかむものだから、新興の宗教だろうが、海外の宗教だろうが、更に節操無くすのは仕方ないのではないかと思います。
でもね。
私は他も見ても、どれを見ても、何を見ても、どんなクズでも置き去りにしない佛様もいる。と思っています。
もちろん、指導する人にも、される人にもレベルがあるのだと思います。
一流大学目指す進学塾は、落第ギリギリの人はお断りでしょうね。
でも、そんな一流な人ばかりではない社会。
凡人愚民の私は、どんな人も御縁がつけば、お断りをしない。
私がつれ歩く人の中には、宗教違いだった方も失敗組も沢山います。
約20年以上かけて、その宗教から今は完全にお不動様、毘沙門天王様の信仰に、時間をかけて変わった人も何人もいます。
だって、親がその信仰してたら子供には選択権なく、他を知る機会すら無く生きてきたのです。
私がつれ歩いてやる。
お地蔵様は地獄で救済、お不動様も地獄で救済、地獄の利用者には様々な宗教の人がいると思います。
それにね、相当頭の悪い私は、ぶっちゃけ、何を信じていようが、何を拝んでいようが、
『あぁ、それ?お不動様が変身してんのよ、ごみ、チリ一つにでも変身して助けに来てくれる佛様よ?誰かが間違って変なモノ拝めば、アッと言う間に中身は不動』と思ってるので、何を拝んでいようが、気にならない。
それだけ私はお不動様と愛し合ってる。
絶対的な信頼をしている。
何もかも絶対に洩らさず救う不動明王なり。
毘沙門天王様とは修行して行くパートナーだと思っている。
もともと根っこには常にお不動様がいることも、間違いない事実です。
私は小学生の頃、日曜学校に行ってました。
キリストを信じない人は地獄。
今考えるとかなり過激な教えだったと思います。
そういう他、それを知るからこそ、違うだろ、とも自分で考えられる。
最初の扉を締め切ったまま、門前祓いしてきた既存の神社仏閣は反省して、門も窓も開くべき。
私の勘違いでなければ、信貴山千手院の毘沙門天王様は誰でも、助かりたい、と思って行くなら受け入れてくださると思います。
お金が無ければ、広い敷地、いくらでも草むしりや掃除は終わることがない、身体でお支払したら良いのですよ。
掃除などのご奉仕させて頂いて、毘沙門天王様にゆっくりお話してきたらよろしいのだと思います。
毘沙門天王様との会話にはお金かかりませんもの。
私はね。
賽銭入れてお願いするのは、ハッキリ言って、違うと思ってます。
賽銭を入れて話が通じたのは、お金が貴重だったから。
貴重な程の賽銭なんて、今誰も入れないでしょ?
塩を盛ったのも同じ。貴重だったから。
だから、私は大切な佛縁の処では、大嫌いな掃除をする。
下座行が苦手、貴重な時間、最大の労力、私にとって、ものスゴい苦しい修行だからです。
❮貴重だから❯
これが私の神佛様に捧げる❮心と態度❯だと思っています。
もちろん信貴山で、お坊様に御祈祷という通訳?お取り次ぎを頼めばお金はかかりますよ。
毘沙門天王様に通じる程、お身体でご奉仕するのは無料です。
お金の御布施は、身体で苦労する時間をお金に代えてるだけですよね。
私が信貴山薦める理由?
だって、夜叉だか、魔物だかわからないような、私が受け入れてもらったのよ?
よほど、たいがいの人は断られない証拠ですよ。
安心してお詣り~