決まり切った話で申し訳ないが、人間は太古の昔より太陽と共に始まり、太陽と共に翌日への鋭気を養う休養へと、躰と脳と心を休めた。
しかし、画期的な電気の発明によって、太陽と共におくる生活は、意識的に行わないと出来ない贅沢へと変わってしまった。
もちろん電気の発明を否定する気持ちも無いし、私だって今の生活の恩恵をたくさん受けて生きている。
ただ何萬年も、それ以上もの期間、人生の半分を寝ていた時代が長かったのに、急激に❮寝ないで働く❯昼間の延長された夜間を、昼間の如く生きるようになった。
何もかもが、便利で効率化を考え、余分な機能や、余分な時間は削ぎ落とされた。
余韻や、間合いは割愛されまくっているのだ。
近頃いつも思うことは、待てなくなったと言う事。
私が小学生の頃は、文通などが流行っていた。
雑誌の最後の方には『ペンフレンド募集』なんてコーナーがあった。
今考えれば個人情報丸出しの、恐ろしいシステムだったかもしれない。
相手からの手紙を、日々の生活を送りながらボンヤリ待つ。
月に二往復していた手紙が、届かない時は、相手の状況が換わってしまったのか、何かあったのか、ボンヤリノンビリ待っていられた。
電話も黒電話がプッシュになって、ダイヤルからの戻り時間が無くなった。
ポケベルが出た辺りから、当日内の返事が当然になったよね。
携帯電話が出た頃は、圏外が多くて値段も高かったから、持てる人は限られたけど数時間に短縮された(笑)
携帯が汎用化され、メールが行き交う。
LINEが始まった時には私は大抵抗した。
でも、確かに便利。
便利過ぎる不自由のない不自由。
先日『LINEの返事が無いので私、嫌われたのでしょうか?』と言う相談があった。
そうでもない結果であったことから、いつからか聞いてみたら、昨日からだと言う。
ただ読んで返事する間も無く別の作業をして、失念することもあるだろうに、そういう自由は無いようだ(笑)
忘れられたら忘れられたで、それもイヤみたいね。再度自分から送ってみる行動は、絶滅したらしい。
私なんて図々しいオバチャンだから、拒絶されようが、否定されようが、私に必要だと信じられるなら、遠慮なんてしないね。
迷惑だと相手を気遣い、お互い遠慮してたら学べるはずもなく。
私はよく〖あきっぽい〗と表現されることがある。
私に言わせればそれは、〖私には不要〗と感じたか〖あきるような内容〗だっただけ。
現に自分に合うと思う教えには、長く御縁を持ったまま。
一時的に離れたように見えても、本物の御縁は簡単には切れないでしょ?
第一に私の人生の数年なんて、佛様にとっては一呼吸にもならないのかもしれない短時間♪
一時客観的に距離を保ち、学ばなければならない事も、時も、あると言うこと。
近すぎては見えないものがある。
葉を見て山を見ず。
寛容な心で待つ楽しみを持ちたいものだ。
忙しいってのは、❮心❯を❮亡くす❯と言う事です。
太陽と共には、難しくとも、たまの休日くらいは太陽と共に就寝するのも善いかもしれない。
ちょっとゆっくりしようよ。