私は六道輪廻の旅仲間は天界の住人であろうと地獄の住人であろうと、程度の多少はあれどほぼみな同じ失敗組だと思っている。
だから毘沙門天王様は私みたいな人界の落ちこぼれでもお拾いになったし。餓鬼さんの親玉をやっていらっしゃる。
餓鬼さんの中にも佛生あり。
畜生の素直さは佛そのもの。
戦いに明け暮れる修羅の戦地でも慈悲は芽生える。
人の世だって高貴な御方もあれば、凡夫もあれば悪性下賎なものもあれど、その中に佛生を見出す。
天界にだって他の六道を導くものあれば、歓楽に明け暮れ使命を忘れたものもあり、でもその佛生は確かであり、例え野干であろうと野干には野干のやり方でしか救えない魂を、黒耳天女には黒耳天女らしい使命があり、それぞれに高尚な神と呼ばれる天界の住人には出来ない仕事、こぽれ落ちそうな魂を導く使命をになっているのではないだろうか。
なぜ餓鬼の中に佛生ありと言うに野干に佛生を見ないか、野良になったら捨て置かれるのか理解は出来ない。
野良でも妖でも、特別失敗組の邪神となろうが、その中には佛生があるのであろう。
祟神を祟神とせず古き善き時代には同祀したではないか?
人にも荒いものあれば天にも荒いものあり。
畜生にも愛らしいものあれば荒いものもあり。
それで良いではないのか?
みーんな六道を旅する仲間じゃないか。
仲良く旅はしたいものだ。
袖すり合うも他生の縁。
そんなざわめきが聞こえてきそう。
なんかあったのかしら?