私は10代の時から、佛様の事を信じて生きている。
ハッキリ言うなら妄信的だった時もある。
その頃は善いも悪いも正しいも間違いも解らず、ただ自分の信じるものを信じてるだけの、一人よがりで雑な信仰だった。
たまたま繋がったご縁が真言宗寺院であったから大きく反れることもなく、今があると思っています。
あの時の踏み出しで珍妙な新興宗教に繋がっていたらと思うと、佛様の御縁導きに感謝してもしきれません。
その頃から現在に至るまで約30年、細く長くお世話になっているお坊様がおりますが、最初の荒削りな信仰であったうちから、現在に至るまでの中に、一時的に信仰に対して心が折れた時期がありました。
信じがたい肉体的精神的金銭的な苦痛に耐えかねて、信仰と言うか人を信じる事をやめた時期がある。
その時に、この先生の一言が私にとっては大きかったのです。
❮信仰は親子関係みたいなもの❯
『全て何事もなく順調に行く人もあれば、一時的に反抗期で家出し、改めて親の有難味に振り返り、やっと感謝出来るようになるものもある。
全ての人がずっと同じように気持ちを傾けられるものばかりではないよ。
離れてみて気が付くこともある。
今そう思うなら離れてみても善いとおもうよ。
そう、私だって反抗期のような時があったよ。』
こう言って頂いたことで、罪悪感が軽減された事があった。
あの時、もし無理に信仰、佛様を最優先で考えなければならなかったら、心は折れたまま曲がったまま成長したのかもしれない。
一度離れてみたからこそ、『浮気して初めて解る女房の良さ』みたいなやつ?
私は切れる前に浮気したことないけど、遠くから見れば見え方が変るのは当然です。
浮気してハマってしまうバカもいるけど、他人の芝生は青いもの、足元見れば更に青かった。てタイプの人もある。
私は間違いなく一度離れてみたからこそ、確固たる信仰となりました。
雨降って地固まる。
雨が降らなきゃ土埃が風に舞います。
雨も恵みの雨となろう。
おんべいしらまんだやそわか。