最近思うのがパソコン用の眼鏡をかけると、黄色い世界だろうな、と思うのです。
ブルーライトを打ち消すために黄色が強い。
サングラスをしても思うのです。
今見えている世界は普段見ている世界より、暗くなっている。
この感じで、ある一定の修行した方からの見え方も、私が見てる世界と違うんだろうな、と思う訳ですね。
私は修行って個人プレーだと最近まで思っていたの、一人一人が読経したり山の霊気にあたり心を洗ってもらったり。
でもどんなにイキガっても、一人には大岩は動かせない、曼荼羅のひとつの点になることから、心を合わせる。
遍満した佛様はひとつじゃない。
大多数の中のひとつに自分を置くことで、奥行きが広がっていくような読経を心掛けている。
心掛けていると言うか、馴染む自分じゃないと佛様のお喜びは遠く感じる。
これは法界力と言うか、ご同行の皆さんとお詣りや、山登りなどをご一緒する【案内人】を勤めさせて頂くようになって初めて解りました。
教える事は自分の足りない処に気付けるチャンスをもらうことだと言うことも少し、解ってきました。
足りない処に気付けるなんて言うと生意気ですね。
足りない事だらけだから、散らばってるピースが近くに置かれ色味位、あわせられる感じかな。パズルが埋まった訳じゃない。
でね、本題。
私は大きく尊敬する先生が何人かいます。
それぞれの先生は、それぞれ違う色のサングラスみたいな、経験とか、感覚とか、そう言ったフィルターを通して観てくださってると思うのね。
それで自分の信じる方が『ありだね』と言えば、ありを中心に考える。
『なしだ』と言えば足りないことがあり、無しと言われる、おのれの因縁を考える。
一人一人個性があるけど、一定の同調が必要な世界。
同調出来ないものは、遠くに置くしか無いのだろうね。
なんなら佛様がその方のお身体使って、解りやすいよう語ってくださってるとも思う時も多々ある。
ただしね、美しい衣装に身を包み蓮の上にいるだけが佛様ではない。
白蓮を頂に乗せ、汚れてはならないものを護る役目を預かる不動明王様のような佛様もいる。
美しい衣装のままでは救えないものに手を伸ばす、塵垢の着物に染めた毘沙門天王様みたいな佛様もいる。
自分の個性とマッチングする佛縁が必ず結ばれる。
佛様が見落とすはずもなければ、見間違うはずもないもの。
期が熟していないのかもしれないし、そのステイな経験が必要だと言うこと。
全ての事柄が必要不可欠でプログラミングされている。元祖Hey!!! シリーだわよ。
ま、今世で結ばれるのかその先か、はたまた結べない御縁なのかは、今やれることを、やれるように精進し、佛様の眼鏡を通してそのように観えるように観て頂くしかないわね。
植えたばかりの作物は刈り取れない。
大切に育て待ってタイミングよく刈り取れば美味しい作物となろう。
タイミングを逃せばこやしとなるか、次への種となろう。
ぶっ壊さなければ新たなものが生まれないこともある。
そんな時は豪快に壊して頂くしかありませんね。
佛様のお心のままに。