自分と他人との考え方には違いがある。
どんなに近い教えに沿って学ぼうと、持って生まれた因縁も違えば、結んできた今生の御縁も違う。
だから、自分とは考え方が違うな、あーその考え方は受け入れがたいな、とか、ひとつひとつの違和感や不信感が、安全装置を外し劇鉄をおこし、いつでも引き金を引けるレベルに来たら、もう末期ですよね。
まして佛教としての伝統秘法についての考え方や、思い入れが真逆の考えだと知る事になったら、最初の一ミリのズレは修行が進めば進むほど遠ざかる。一ミリ処か端からだいぶズレてるんじゃない?と気が付く。
17年位ご同行としてご一緒させて頂いたが、この5年位ちょっと差異が顕著だもの。
それを曲げてお預けしたりおまかせしておくなんて、自分の罪を作るような物でしかないと気付かされた。
引き金は引かれたんだね。
細く長く御指導頂く先生に愚痴らせて頂いて、自分の本心に気付かされた。
やっぱ正しいと思えないことはダラダラ続けてはならないですよね。
私は私の大好きな信貴山の毘沙門天王様の御寳前で恥ずかしくないように生きたい。
佛様の声を、佛様のお話を一番多く沢山真剣に聴いて学んだ毘沙門天王様だから、私も少しでも真似出来るように、恥じない佛教徒でありたいと思います。
ご本尊は御利益製造機ではない。と言う諸先生方のお話は実に共感します。
貪欲で身勝手な願意ばかりを佛様にお伝えするのは、本当に御断りしたいです。
今までソレを弛し黙認してきた処が居心地善いのであれば、そのまま続ければいい。
少なくとも人生を佛様と共に歩む人間らしく、修正したいと願うなら、慎ましやかであれ、とまでは思いませんが、
❮早く気付いてまともな感覚に立ち直って欲しい❯と願います。
ちょっとヤンチャだっていい。過去は失敗だらけでもいい。でも今からは襟をたださねばならないのです。
まともな佛道修行をしたいと願うものしか、毘沙門天王様は手を伸ばしてくれないと思いますよ。