大きな神殿を見下ろしている。
山の見晴台のような処からのようだ。
しばらく眺めているが、美しいと言う気持ちと、とても怖いと思う気持ちがある。
畏れと言うが、無闇に近付いてはならない!かしこまった感じ。
その右奥には大きな湖がキラキラと太陽を映している。
何故だか現実には上から大社を見おろしたことは無いが、湖の加減からなのか、そこが諏訪大社だと理解している。
その内に山を下る。
中腹辺りまで降りてきて、山の方を見上げると、白くて広ーい道に変わっている。
クマほどともあるような大きな、茶色の柴犬とハスキーをブレンドしたようなドデカイ犬と、その犬を繋ぐひもを引く白い上下の、耳上で髪を二つに分けてクルンと束ねる『昔の神様風』な姿の人が、猛ダッシュでかけ降りてくる。
あまりの勢いの善さに私は笑ってしまう。
犬が嬉しそうに走っているのを、後ろの白装束の人は、笑顔であるが真剣な顔をして、ついて走って、私の右横を駆け抜け降りて行く。
山の上にはもう一人、同じような服装の人が、その光景をみている。
それでおしまい。
起きてから諏訪大社に行きたいと思う気持ち、焦るような気持ちがある。
なんだろうね。
私は若い時、ツーリングの目的地として、諏訪大社に行ったが、怖くて中に一人、入れなかった。
畏れ多いという感じというか、踏み潰されるような、妙な気持ちで、外の蕎麦屋で他の皆が帰ってくるのを待っていた。
そこから、【なんでお諏訪様のこと怖くなっちゃったんだろう】と府に落ちていない。
何故かというと、、、
私は子供の頃、村社みたいな小さな神社で善く一人で遊んでいた。
大きな杉の木をぐるぐる回ったり、社の周りをくるくる回ったり、石の置物、たぶん燈籠の台座みたいな物で遊んだりしていた。
そこは小さいけれど、諏訪神社なのにね。
この頃は、夢の中にこの神社が出てきて白い蛇が山へ帰って行くの、見送る最中に七色の虹のような色に蛇が変化したりして。
現実も夢の中も、この諏訪村社で遊ばせて頂いていた。
で、現実社会で、大人たちが、村社である『諏訪神社で外から来た人が亡くなってた』と話していたのを聞いた途端に怖くなってしまい、行けなくなってしまったのが、小学生の高学年くらいだっただろうか?
あれ以来、記憶が正しければ1度だけ、お詣りに伺った。
特に怖いとか、気味が悪いとか思わなかったが、以前のような神様に親しむような感じも、わからなくなってしまっていた。
で、まぁ、大人になって、諏訪大社様に入れなかった話を神社好きな友人に話をすると、❮前世、蛙だったの?❯とか、❮狩りとられた獲物だったのでは?❯と笑われる。
意外かもしれないが、私は前世で生贄だったことがあるらしい。と前世療法をうけ、思っている事実もあるので、割りと笑えない(笑)
どうしよう。
確かに今日は1日オフ。
この焦燥感を止めるには、長野まで行ってみようか?
なんで諏訪大社に行きたくて仕方ないのだろう。
誰か教えて。