よく友人知人との会話の中に『○○どうする?』と聞かれたりすると、「どちらでも〜」と言う返事をもらうことがあるけど、私はあまり好きじゃない。
本当にどっちでも良いならどっちか選びなさいって思う。
だから決められない人と一緒の時や、本当にどっちでもどうでも良い時は、サクッとじゃんけん大会を提案する。
ソッコー決まるし後腐れない(笑)
私はなるべくイエス・ノーは、ハッキリとするよう心掛けているけど、じゃんけん大会にしちゃうのも多い。
じゃんけん勝っただけで気分良いし♪
私思うのはね、大概の人の『どっちでも〜』はホントはどっちでも良くないのよ(笑)
●本心はやりたい。でも背景を考えて遠慮する。
●本当はこっちが良いけど申し訳ない。
●私に選ぶ権利なんてない。
●選んだところで、それを満足にさせられるか自信ないからやめとくのが無難か?
いやいや、無難ってのは難が無くなる人生なだけじゃなく、経験を得られない人生って事だから。
失敗をして初めて成長出来る人生もある。
私は失敗人生の先生になれる程の失敗をジャンジャン経験しているボンクラだ(笑)
でも経験の無い人生より、【これはダメ、これは遠回り】は人一倍知ってるつもりでいられているのは経験値の高さのおかげだと思っている柔らか頭。
それに意外と失敗かと思っていた事が、後々はスムーズに物事を活かせるための清算って事は多々ある。
あっち〜フラフラ、こっち〜フラフラ、全身全霊バタフライみたいなのはペケだと思うけど、一見バタフライみたいに見えていようと、一本通った筋道だけは外さずに行くなら見聞を広める、遊山経験となりその経験を活かし、次の御縁と結ばれるのが佛様からみた必要のあるものだけを選んで、必要な分だけ授けてくださると言うご配慮ある生活であると思うのです。
だって、佛様のオデコに○○宗の佛様、だとか○○宗系の明王です、とか貼ってあるわけじゃなく、山に例えるならどのルートで登るかと言う差異しかないでしょう。
どのコースなら自分のレベルで登れるのか?ってことなんじゃないかな?
身の丈にあったルートじゃなければ登りきればしないでしょう。
分相応なルートを選び無理無く快適に、経験値が上がったら難所の多い山に登るのも良いとは思うけど、最近サンダルで霊山登って降りられなくなる人とかいっぱいいるんね〜。
話を戻すと、どっちでも良いと思うなら進んで見るべきだと思うのです。
最初から『ようこそ弟子入り出来ます』なんて言ってくれる先生なんて怪しすぎる(笑)
大概最初は『うちは弟子なんてとってません、とか○○なら教えますが、その先は、、、』と言われるものだと思いますよ。
お互いを理解しあえる処まで、なかなか先生は見つかっても師匠は見つからないものです。
それを考えると私は恵まれていますね。
穏やかな師僧様の元で伸び伸び毘沙門天王様にお仕えし、ゆっくり学ばせて頂いている。
私の御師僧様は毘沙門天王様とお話出来る先生だから、人界の雑音が入ろうと毘沙門天王様が理解してくださる事は、御師僧様も語らずともご理解くださる。
師僧となって頂くまでに約25年位かかりましたけど(笑)
ありがたい事ですね〜。
おっちゃんイケメンやな〜。
この本の最初についているカラーページ、信貴山千手院の毘沙門天王様のお姿です。
お手頃な値段で読みやすい内容。はじめの一歩はこの本で学ぶのもよろしいですよ。