私は常日頃、❮珠磨き法話❯が好きでお話をする。
一部かいつまんで。
人は生まれる時に宇宙の偉大な、ゴツゴツの石を持たされて生まれる。
その石は丸に近い人あらば、三角やとてつもなく堅く大きな物を持たされて生まれる人もある。
浅間石のような溶岩みたいなゴツゴツもあれば、瑪瑙のような質の物を持たされて生まれる人もある。
それをキレイに真ん丸に磨き終わった時こそ、天寿まっとうとなり、佛の宇宙に戻る許可がおり、迎えに来てもらえるのだと、思って疑わないのです。
大きな角を落とすときは、痛みを伴う事もあり試練と感じる。
大きな試練がある時は、魂の石の角を落とす時なのですよ。
その試練は無くてはならない珠磨きのひとつの行程であるのですから、必要な痛みなのです。
しかも、必ず磨けると佛様が信じてお与えになる試練なのです。
でも削り落とせた時には、珠は少し丸に近づいています。
無理に強く磨けば欠けるは心、常に乱すこと無く穏やかに研磨する事を心掛けるように。と思います。
と話すわけです。
でもさー、人間だものねー。そんな悠長なこと言ってられないときもあれば、見切りつけて半額シール貼りたくなる時もある。
ぶちまけたくなる時だってあるわよ。
そもそも、人間性最低から這い上がってきた夜叉組トップの私が、普通のしおらしく可憐な尼僧になれるハズもなく。
下品に輪をかけてピン止めしたような私に何が出来る?
ふん。
人生のドブさらいみたいな事しか出来ないわよ。
塵垢に染まり、底辺の底辺でも出来ることは何か無いか考えるだけ。
ドブが臭いけりゃ、景観も台無し。
キレイで上品な人が優雅に笑ってられるのも、ドブさらいしてくれている人の上に成り立っている。
私は塵垢の毘沙門天王様や青黒のお不動様と共に歩いています。
在るもので足るを知る。無いものは無い!
善くも悪くも袖すり合うも多生の縁。
この、多生の縁って意味は深いわ。無始。
私は佛様と共にある。
もちろん皆様には皆様の佛様があり共にある。
今日も安心して珠を磨きましょう。
それ以外にあり得る?笑
はなから、なーんも無いわさ。
心の中をちゃーんと見てごらんね?
佛様はなんといっとるかいね?
なんと言うか耳を澄ましてごらんね。
『良いんだよ。自分らしくで。』