畑の中にそびえ立つ豪華な家に招かれ相談される。
ご子息夫婦に子宝が欲しいと言われる。
いくつかのアドバイスを普段と同じように、教えて帰路に着く。
(実際のアドバイスはその時によって、どのような組合せをお話するかは私にもわからない。いくつかの場所を巡らせるか、書かせるか、身につけさせるか、人次第で内容は変わります。)
その帰り道に友人を見つけ友人宅に立ち寄ると、さらに別の友人達も既に立ち寄っていて懐かしい顔ぶれに行き合う。
私は何故か縁側から中には入らず立ち話をしている。
すると隣の家にも縁側から話す二人の人物があり、よく見ると先程の相談者さんのご子息てあり、傍らには女性がおり奥様かと思われる。
その時ふと『あぁ子選びの心あるもの授かれないのか』と何故か思った処で、おしまい。
そう言えば確かに拙庵にご相談に見える方でも子宝が長年望みであったが出来なかった方や、何度も流産を繰り返す方でもご相談後に幾人も子宝を授かった方々がありましたが、今思い起こせばどの方も迷い無く『授かれればどのような子でも大切にいたします。』と言う類の宣言を促すでも無くハッキリ御本尊様方の前で言われていました。
逆にいくつかの提案の中、迷いの生じた表情をされた方や提案を否定された方は、私の処では御縁を結んで差し上げられなかった。
あぁ、これが分岐点のひとつなのだな、と思いまして
今は寅の刻、毘沙門天王様からのヒントと思いました。
拙庵にてこの紙札、無料にてお配りしています。
どなた様も願い事が叶いますように。