物事にはタイミングと言うものがあると思いますが、佛様との関係はまさにこの言葉がシックリ来るように思います。
佛様はその時その人に適した御褒美や、修行を適切に与えてくださると思うのです。
特にその人が理解出来ない事は、説明してまで説こうとしないあたり、潔いと言うかなるほど~と後々になっていつも感動いたします。
例えば日本語をまったく知らない外国の方が日本に来て、挨拶程度はすぐ出来るようになるでしょうが、難しい物語を読み書きするようになるまでには時間と本人の努力が必要になります。
いくら素敵な物語だからと言っても、日本語がまったくわからない人が、いきなりラピュタやトトロを理解するかと言えば挿絵の美しさ、アニメであったとしても、映像の美しさやサントラに心うたれ涙を流すかもしれないが、内容をそれなりにでも理解するかと言えば恐らく難しいでしょう。
だから初心の言葉も理解しない人がいきなり広辞苑なんか開いてみたって、そのまま閉じて封印するか枕にするくらいしか使いこなせないでしょう。
無宗教時代を生きるほとんどの人は、佛様との言葉を知らずに成長し、佛様とは葬式でもなければ関わることもなく生きている、とか初詣で5円投げて賽銭箱に入ればラッキー、位に思っている人が、わんさかいます。
佛様に困った時にだけおすがりし、実際救われたら、たまたまの偶然が重なったと顧みなくなるか、その中でもやっと挨拶が出来るようになる程度の人がほとんど。
私だってやっと最近ゆっくりならなんとなく、タイトルか目次か初心ページの先頭っぽいのが、わかるようになったような気もするけど、相手に通じているか疑問だけど身振り手振り伝えようと、チャレンジしてくる日本語学び出した外国の方、みたいな状態です。
本当の意味はあってるのかあってないのかは、いずれ来るその時までわからないです。
でも、手を止めず歩くのを止めず学ぶ気持ちを忘れなければ、必ず結果は遅くとも変わってくると思うのです。
例えそれが今世でなくとも、今を変えれば未来が変わる。
そう信じています。
むかし、佛様の事をめちゃ投げ出したくなった時があった。
その時に相談した方に『佛様との関わりは父親との関係みたいなもの、最初は強く立派だとすがるが、思春期には毛嫌いし離れたくなったりする人もいる。でもまた打ち解けるように親孝行したくなり、ゆっくりした時の流れで信頼し合う仲になる。今は離れたいと思うなら、それも御縁だと思いますよ。』と言われた事で罪悪感が消え、しばらく離れた後の今こうして仲良く歩み出せていると思う。
三十路を超えて反抗期が終わり、四十路を超えて機が熟してきたのかなぁ、とも思う。
人生折り返してますから復路です。
素直で正直に佛様が与えてくださった機会を大切にして進んで行こうと思います。
感謝
文殊菩薩様は見逃されやすいですが、白檀で作られています。見つけられますか?