私は未熟な修行者なので、間違った考えかもしれない。
でも、経験上、言うなれば肌で感じた?いやいや。
全身の毛穴で感じたことを少しお話したい。
どんなにスゴい霊山や、霊場にお連れしても、どんな奇跡を起こせる先生方にお繋げしても、拝んでもらって終わり、は絶対に無い。
ハッキリ言えば、それは道のポイントを切り替えてもらう作業のようなもの。
本当に道を照らせる方に観てもらえたアドバイスが『今までの生活を一変しなさい』と言われたら全く生活を変える努力をする。
写経しろ。と言われたなら、それを手を抜かず、切り替えて頂いた道から漏れず、元の道に戻りたくないなら続ける。
しかも道を変えて頂いた報恩の念を込めて、私なら更に数を増やす位やるよ。
お経を読めと言われたら、何があっても最低限のものは欠かさず、これで足りた。は、有り得ない。
どんなスゴい先生方に拝んでもいただいても、変えて頂いた道を継続させるのは自分。
学校の授業を受けて学んだら安心?
授業数回受けたら天才?
天地をひっくり返すような天才になれるのだろうか?
その先生がずっと人生ついて歩いてくれる?
ないよね。
例えば海の潮の流れの早いところで、溺れそうになっているとしよう。
やっと助けの浮き輪が、手の届く所に投げられたとしよう。
それを掴み続けて、場合によっては、よじ登り、その浮き輪をくぐって身体に巻き付けたとしても、そこはまだ海の中。
本当に安心出来るまで、手を抜かず掴み続けて、本当に安心出来る処まで自分で泳がなければならないと私は思います。
時に、例えば私の師僧が毎日無事を祈ってくれていようと、泳ぐのは自分だと思います。
生意気なようですが、私が写経が必要、と言ったなら残念ですがそれが必要なのです。
少なくとも私は毛穴でそう思ったことを信じている。
うちの雪ちゃん、弓さんも応援してくれてるよ。
般若心経の写経が難しいなら、毘沙門天王様の真言を写経したっていい。
極端な事を言えば、【あ】を100万回書いたって良い。心を込めて書くなら、【あ】でよろしいと思う。
色々考えてしまう人が参考に読まれているとしたなら、もう少し掘り下げて。
私は梵字の【あ】でも、ひらがなの【あ】でも、カタカナの【ア】でも、極論【A】でも善いと思うよ。心を込めているなら。
それが、その時、あなたに出来る精一杯であるなら、私の知る毘沙門天王様は絶対に聞いてくださる。
少なくとも信貴山千手院護摩堂にいる毘沙門天王様と空鉢護法善神様は聞いてくださる。
私はそう信じている。
でも少しでも手を抜いたり、少しでも泳ぐことを怠ければ、あっさりと御試しを更にかけて、鍛え直してくださる。
これは本当にキツイ御試しだ。
私は舞い上がっては御試し、舞い上がっては御試しの繰り返しで今日まで生かせて頂いている。
でもこういう試練のひとつひとつが私の今世の修行なのだと、更に精進努力させて頂けると最近は思えるようになった。
素直にそういう心境になるまで25年位かかりましたけど。
アドバイザーとなった方から観えた『必要なもの』は、必要なのです。
アドバイス理想通りに出来なくとも、それが本当に心からの精一杯であるなら、見放さないのが毘沙門天王様でもあります。
ムカシヤンチャシテタカラネェタショウノシッパイハソウテイナイニンゲンナンテシッパイゾクダメモクダ
本来、任意で安心に包まれた信仰であるべきだ、と私も思います。
しかし切羽詰まった御試しの最中にあり、少しでもその試練を乗り越えたいと思うならアホでバカな位、真剣に神佛におすがりし、全身全霊かけて、報恩を忘れてはならない。
とりあえず、
【おんべいしらまんだやそわか】
を100万回唱える処から再スタートをご提案します。
気が遠くなると失敗するので、先ずは1万回で、終わったらご褒美ランチにでも行って、ご褒美しながらお進めください!
応援しています。